黒トモさんのてきとうブログ。

Twitterでは書き切れない事をジャンル問わず書いていくスタイルです。

きっと複雑だろうけど、でも復活して欲しいこと。

それはなんといっても、タバコ広告の復活です。

 

かつてさまざまなモータースポーツでは、色とりどりのタバコ広告がありました。そしてそれらは宣伝になりますし、何より見た目がかっこいいのです。

 

ところが嫌煙が世界中に広がり、タバコについて害があるという旨の啓蒙広告もやるようになりました。するとたちまち各国さまざまなレースシーンにおいて、タバコ広告が消えてしまったのです。消えたのは2007年あたり、10年前の話です。

 

確かにタバコは体にとって毒そのものであり、場合によっては違法薬物として指定されてもいいくらいでしょう。しかし、酒類やパチンコ店のスポンサーは合法なわりに、タバコだけ厳しくするというのは、あまりにもおかしいです。まあ素人の僕が言うのもなんですが、いまだに納得していません。

 

F1では、ここ数年ハイネケンやマルティニをスポンサーにしています。「飲んだら乗るな」はちゃんと踏まえてやっているそうですが、大人の嗜好品でもある酒はOKで、同じく嗜好品のタバコはNGというのは何とも変です。タバコが吸いたくなければ吸わなければいいだけの話です。吸う人は吸うのですから、それでいいはずなんです。

 

かつてのモータースポーツは華やいでいました。走る広告の象徴でした。往年のアイルトンセナが駆るマクラーレンホンダマルボロカラーに釘付けになったり、シルクカットカラーに染まったジャガーXJR9、今は無きマイルドセブンのロゴを付けたベネトンフォードなど、数え切れないほどの名車がみんなタバコ広告に彩られていました。それが今では、タバコ以外の別のロゴを走るばかり。あまり見た目的には興奮しません。

 

これから先もずっとタバコロゴの無い車がレースをすることでしょう。しかし僕は昔にモドレるのならば、1990年代がいいと思います。

 

今回は懐古的なテーマのもとで書きました。

PSAという啓蒙広告の存在と興味

PSAというのは、public service announcement(パブリックサービスアナウンスメント)の略称で、日本では公共広告を意味します。かつては親に説教されるより怖いと恐れられたACジャパン(旧公共広告機構)が有名です。

 

僕自身こういうものというのは、ジェイソンが人を殺すシーンを怖いと思いながらも観てしまうのと同じ意味としてそれらのCMを観ています。まあ意味合いは違いますけれど、やはり30秒から1分程度でありながら、ドキッとさせたり胸が苦しくなるような後味の悪いものばかりをCMとして流しています。

 

https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=%23&ved=0ahUKEwj7srDku8fTAhVIqJQKHVKMBSwQxa8BCCUwAw&usg=AFQjCNF1sHlk2z9QIx28jtvfnGP_UlkifA&sig2=wjexWz-vlS6KtbMrEM9G7w

 

たとえばオーストラリアでは有名なTACVICTORIA(タックビクトリア)のこちらのCMでは、居眠り運転が原因で池に突っ込み、同乗していた妻と子供を溺死させてしまうという悲しい結末が待っているCMがあります。夫は「助けてくれ!」と叫んでいるわけですが、CMの演出とはいえリアリティがあります。実際このCMを含む本物のような怖さがある広告のおかげで、オーストラリア国内の事故率はかなり減少したそうです。日本だとJAROの規制が厳しく、こういうCMは流せないのですが、海外の方に目をやると、かなりショッキングな映像を流しています。

 

僕はこういうCMを集めるのが好きで、YouTubeではこの種のCMはたくさんあります。投稿する人が多いのです。それは彼らがトラウマを覚えただけでなく、懐かしいという意味も含めて投稿しているんだと思います。もともとは海外のテレビCMが好きで観ていましたが、ACみたいのって海外にもあるのかと調べたら確かにあったので、それがキッカケですっかりトリコになりました。

 

海外だけでなく、日本もこういう怖いけれど強いメッセージ性のあるものを流してほしいものです。

5/1という日。

5/1は、僕にとっては大切な日だと思います。

 

まずは友人の誕生日です。

 

友人は僕と同い年で、5/1に生まれました。僕自身は8月が誕生日なのですが、(一応)ずっ友であります。あいにくその日はお互い忙しい日になるのですが、LINEでおたおめくらいは書こうかなと思っています。まあ身内の話ですが。

 

そしてこの日、これは僕というより、モータースポーツが好きな人には絶対に忘れてはいけない日であります。そう、アイルトンセナの命日です。

 

早いもので、あの日から23年目になります。4/30はローランドラッツェンバーガーの命日でもあります。F1の歴史が変わったとともに、哀しみに包まれた2日間でありました。

 

奇しくもセナの命日と友人の誕生日が重なっていますが、しっかりとセナに黙とうを捧げ、友人におめでとうと言う予定です。

 

ちなみに1994年5月1日、現在のSUPER GTの前身である、全日本GT選手権の開幕戦が行われた日でもありました。最初は旧富士スピードウェイでした。サンマリノグランプリと重なっていたのですね、これもまた偶然です。

 

 

 

マクラーレンホンダについて思うこと。

あくまでも個人的に思うことです。ご理解のほどお願いいたします。 

 

2015年からF1に復帰をしたマクラーレンホンダですが、復帰から3年目であるのに、未だに優勝していません。それどころか表彰台にすら上がっていません。また、アロンソはこの現状にイライラしています。

 

かつてのマクラーレンのような速さはまるでなく、戦意喪失したかのような遅さが目立ちます。大変なのでしょうが、しかし速くなければ意味がありません。F1としての強みを見せつけなければ、そこに立つ必要がありません。

 

 

 

思いのほか違う展開で戸惑った美女と野獣の実写

公開されてから人気を博している実写版美女と野獣ですが、僕自身は基本的なストーリー展開には満足しているものの、所々で違う場面展開があることに納得がいきません。

 

少しネタバレになりますが、ガストンが野獣を殺すシーンでは、アニメ版ではナイフで脇腹を刺しますが、映画ではピストルを2発撃つことになっています。また、ガストンの最期が、アニメ版では野獣に払いのけられてバランスを崩して崖に落ちて死ぬのに対し、映画では塔が崩れ落ち、その場所にいたガストンが落ちて死ぬ形になります。つまりはアニメ版とは全く違うパターンになっていたということです。他にも「ここは違うでしょ」というシーンがいくつかありましたが、さすがにネタバレしすぎるのでこの辺にします。

 

正直ガッカリしています。ツイッターではこの映画についての批評はあまりありませんでしたが、僕自身はあまり良くありませんでした。ミュージカルだと思って割り切ればいいものの、やはり山寺宏一さんの声で聞いて育った以上、どうしても山崎育三郎さんの声に戸惑いを感じてしまうのです。

 

 

確固たる証拠がない「発達障害」

発達障害があるということを医師が伝え、それを聞かされた親が、当時子供だった僕に伝えてくれました。

 

確かに義務教育の9年間は、いわゆる「特別支援クラス」という少人数の場所で勉強はしていました。ですが、発達障害であることを証明するには、あるものが必要になってきます。

 

発達障害を証明する手帳」

 

これが僕は貰ってないのです。どうやら僕が生まれた当時、そこまで医療の技術が現在ほど良くなく、「発達障害ではあるが、とりあえずお子さんを見た限り、情緒不安定である」という「とりあえず」という枠で定め、「完治はできないが改善はできる。あとは、親御さんの育て方次第」という風になり、本来もらうはずの障害手帳を作らせてもらえなかったそうです。

 

今思えば何とも不思議ですね。じゃあ僕は健全者として生きていいのか?そういう疑問が出てきます。

 

まあこういう謎に満ちた状態で生き続け、最期を迎えるのもいいかもしれませんね。よく言うじゃないですか。「知らない方が幸せなこともある」と。だからそうなのかな?って思います。

水曜どうでしょうはある意味YouTuberの先駆け??

比べるまでではありませんが、個人的に思ったことを書いていきます。

 

どうでしょうといえば、言わずと知れた怪物番組です。ローカル番組が全国的に流行したのは、おそらく後にも先にもどうでしょうだけでしょう。そしてその番組の構成や字幕の出し方、カット割りをよく観ると、なぜかYouTuberがYouTubeに動画を投稿するかのような気がするのです。

 

その証拠に嬉野さんのカメラ撮影が関係しています。

 

嬉野さんのカメラは、20年以上一貫して市販のビデオカメラで撮影をしています。一般的なテレビ番組は、そのテレビ局専用の大型カメラでの撮影を行いますが、どうでしょうではそのカメラひとつで撮影しているのです。これは奇しくも、今活躍しているYouTuberも同じように市販のカメラです。最近ではスマホでの撮影というのもありますね。

 

カット割りについても、やはり先駆けだったのでは?と思います。

 

編集ソフトによる不要シーンのカット、そして出演陣の喋りが飛び飛びになるのも、現在のYouTuberがよくやる手法なんです。だからこそどうでしょうがYouTuberの先駆け、強いてはYouTubeの先駆けであったのでは?という何ともお粗末な理論を展開してしまうのです。

 

もちろん比較してはいけないですし、彼ら4人の方がもっと長期的に、もっとツライ旅をしてきた訳ですからおこがましいものではあります。ですが、そういう風に思っていたのは確かなので、今回はどうでしょうがYouTuberの先駆けであったのでは?というテーマで書きました。僕自身どうでしょうが好きなので、こういうくだらないことを考えるのもいいかなあなんて思いました。